どーも、こんにちは!!
漫画家・イラストレーターの青柳恵太です。
本日は、ついにWEB連載を開始することができた
『CODA-手話が嫌いだった私が手話通訳士になった理由-』
についての製作秘話をご紹介します!
『CODA-手話が嫌いだった私が手話通訳士になった理由-』とは?
CODA -コーダ-
-手話が嫌いだった私が手話通訳士になった理由-
あなたの“ふつう”とは何ですか?
聞こえる社会と聞こえない社会の狭間で葛藤する 『CODA』 という方々の体験を取材をもとに描きました。
CODA(以下、コーダ)……、
”Children of Deaf Adults”の略
「聞こえない親を持つ聞こえる子ども」
2020年2月1日からLINEマンガにて公開中です。
(以前は、ジャンプルーキーやKindleでも公開していましたが現在公開停止中です。)
“CODA(コーダ)”を描くようになったきっかけ
この『CODA-手話が嫌いだった私が手話通訳士になった理由-』というマンガは、2013年度の京都精華大学マンガ学部の卒業制作として発表したマンガ『CODA-コーダ-』を元にさらに多くの方に取材を重ねリメイクした作品です。
当時は、『自分だけにしかないものを描く』という卒業制作のテーマから、“この作品は実話である”ということを言いたくて題材を探していた時に
そういえば、自分の祖父母は耳が聞こえないから
その生い立ちをテーマにして卒業制作を描こうか…?
でも、聞こえない人の差別や生い立ちを描いた作品はあるなぁ…。
それこそ“聲の形”が発表されたところ(当時)だし内容被るなぁ。
あ…聞こえない親をもつ子どもって題材になったマンガないんじゃ…
へぇ…、コーダっていうの名称があるのかぁ…。
というような漠然としたイメージで私の母に話を聞いたことがきっかけでした。
しかし、話を聞くうちに半端な覚悟で手を出してはいけないテーマだったことに気がつきました。
『親の耳が聞こえない』というたったひとつの違いで幼い頃からいろいろなことに葛藤し、聞こえる社会と聞こえない社会の狭間でさまざまなものと闘ってきたこと…。
周りからの冷たい目や罵声になんども両親の言葉である手話を否定したことなど…
コーダゆえの深い問題が次々と母が自分の生い立ちを語る中から溢れ出てきてました。その時、いままで当たり前に接してきた手話や聞こえないひとたちへの価値観というものが何度も変わったのも覚えています。
その時、私は何という難しい問題に手を出してしまったんだと思うと同時にコーダの子どもである自分ですら知らなかったこのコーダであるがゆえの苦悩や葛藤をマンガという媒体で発信して、より多くの方にコーダという存在を知ってもらおう。
という気持ちになってこの作品を卒業制作として発表しました。
当時は、卒業制作の基準がストーリー漫画30ページでした。
しかし、気がつけば150ページを超える漫画として発表していたのです。
「CODA」を発表してから6年…リメイク版の連載開始へ
京都精華大学の卒業制作から約6年…。
2020年2月1日、ちょうど精華大学の卒業制作展の時期にリメイク版を発表できました。
当初は、卒業制作で描いたマンガをそのまま公開するとか、出版社の方からお声をかけていただくこともありましたが、いろいろあってしばらく公開を中止していました。
そのひとつに自分の実力不足があったのは事実です。
今の状況では漫画を描いても事実を伝えることはできない。
自分の親以外のコーダのことをよく知らないまま作品を作っても当初の目的とは異なる作品ができてしまうという思いからも、いろいろな方に取材をしたのにもかかわらず、作品制作には手をつけられない状況が続きました。
その節は、お話伺った方にはご迷惑おかけしました。
そのあとも紆余曲折あったのですが、本格的にリメイクしようと踏み切ったのは昨年に漫画家・イラストレーターとなり、このコーダの作品を描くことを応援してくれた方がたくさんいたことです。
また、今年は漫画を描き始めてから20年であり、本格的に漫画家を目指そうと京都精華大学に入学した年から10年目の年でもあります。
そんな自分にとって節目の年でもあり、個人で発表するデビュー作品は今の自分の基礎を作った「CODA」と決めていたこともあったので、今回制作しました。
まとめ
ということで、今回は「CODA」の製作秘話というかなんだか思い出話だけで取り止めのない記事になりましたが、これからどんどん投稿していきたいと思いますので応援よろしくおねがします。
そしてたくさんの方にコーダという存在を広めていただければと思います。
最後までご覧いただきありがとうございました。
次回は、もうちょっと明るい話というか、
昔の作品の画像を交えて面白い記事にしたいと思います(笑)